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いい声で英語を話そう! [発音・綴り]

日本語は高い声で話すけれど、英語は低い声で話すという説があります。
それを知ってから、いろいろな人の意見に注意していますが、判断がまっ二つに分かれるので驚きます。
私自身は、いわゆる作った声が高くなるのが日本語、低くなるのが英語と考えています。

日本語と英語で声の高さが変わると言う人は、友人の帰国子女がそうだ、自分がそうだと言います。
私も帰国子女の生徒さんの声を聞いてそんな印象をうけたことがあります。
だからそうなのだろうと思って、街中で耳をすませたり、YouTubeで普通の人が話す動画を視聴したりしていると、だんだんわからなくなってきます。
声質も高さも、じつに人さまざまです。
実際、音声学者で高さの違いはないと言う人がいます。
けれども、ニュース番組や店内放送を聞いていると、アナウンサーの平均的な音域は英語のほうが間違いなく低いだろうと思わずにはいられません。

ですので、公園で元気に遊ぶ子供たちの声を録って分析できたら、どうなるだろうかと興味をもってます。
日本語を使って遊んでいる子供と英語を使って遊んでいる子供とで、声の高さがちがうでしょうか。
たぶん変わらないでしょう。

それでも、いい声で話したら英語がうまく聞こえるはず! と期待する人は多いと思います。
私自身は自分の声のことはもう気にしないようにしていますが、もっともな考えです。
そういう人には、つぎの動画の練習方法が簡単で、参考になるでしょう。

How to Develop A Manly Voice | Art of Manliness - YouTube
20世紀半ばの教育映画風に作ってあるのが洒落ています。
自然にmm-hmmと相づちを打つときの声の高さで、mask(口と鼻の周囲全体)を振動させて、腹式呼吸で発声すれば、その人のベストの声になると説明されています。

細かいことですが、このvoice overの人はたぶん外注で、録音は別々にしていると思います。
mm-hmm, one, mm-hmm, two, ...
と練習しているところでは、ビル君のように、全部上げ調子で言うほうがうまくいくはずです。
voice overの人のように、上げ調子、下げ調子、上げ調子、下げ調子だと練習にならない恐れがあります。

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なぞなぞと英作文 [自由英作文]

この文書では、もし中学生の生徒さんがわからなかったら家族の誰が代わりに読んで説明してくれるだろうと期待できる状況でしたので、トゥールミンモデル、省略三段論法という用語をつかいました。
けれども、実際に中学生に教えるとしたら、そういう用語は避けて、なぞなぞから始めるでしょう。

● 2つ目まで聞いて納得できるなぞなぞ
1、脚が4つあっても歩けないものは?
2、テーブル

● 3つ目まで聞いて納得できるなぞなぞ
1、朝は4本足、昼は2本足、夕は3本足で歩くものは?
2、人間
3、赤ん坊のころは4つん這い、その後2本足で立ち、老人になると杖をつくから

● 2つ目まで聞いて納得できる議論
1、AとBではAのほうが優秀な選手だったと思います
2、AはBよりずっと多く得点したからです

● 3つ目まで聞いて納得できる議論
1、AとBではBのほうが優秀な選手だったと思います
2、Bは決勝点を決めたからです
3、これは緊迫した場面でもBが冷静だった証拠です


なぞなぞをいろいろ読んでいくと、面白いとか、それほど面白くないとか感じるでしょう。
議論にもすんなり納得できるものとそうでないものがあると気づくはずです。
すると、作文に説得力を持たせるにはどうしたらいいか関心がわいてくるでしょう。

英語のなぞなぞ:
203 Fun Riddles for Kids with Answers
riddles+list (Google検索結果)

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夏休み英作文について(8) [自由英作文]

その他のヒント

 英作文について以上のようなことを漠然とながら考えていました。夏休みの英作文へのコメントはこのような考えによるものです。以下、あとから考えついた解決法をつけ加えて終わりにします。

 先に述べた間接的な表現は、なにも目の敵にするものではなく、うまく利用できれば効果はすこぶる大です。小学生のころ、上手な読書感想文のコツとして感情の形容詞を一切使わない書き方があると何かで読みました。当時の私の読書感想文はこういうことが書いてあって「おもしろかった」、こういう場面があって「悲しかった」という調子でしたので、いたく感心しました。これに似ていると思われるのが「著述家の技術はインクつぼに何を残すべきか知ることにある」(イェスペルセン, 2006, p. 185)という言い回しです(どの国のことわざかは不明。イェスペルセンはデンマークの英語学者)。「人を退屈させる秘訣は何もかも語ろうとすること」というヴォルテールの言葉も同じことを述べています。説明しすぎるとよくないこともあり、適切な省略がスムーズな伝達に役立つという発想はヨーロッパの思考にも存在するのです。ただ、どんなとき、どこを書かないかの選択がそれぞれ違うのです。今回の夏休みの作文では「これから英語の勉強をさらにがんばりたい」ということが言いたいことのひとつでした。これは直接書かなくても、ほかの方法で表現できたかもしれません。

 具体的には、多くの分量を書くことで意欲を示す方法がありました。もし語数が自由ならば、確実で、実行しやすい方法です。そうでなければ、中2までの英語教科書に出た文法事項をなるべく取り入れて書く方法がありました。たとえば、普通に書けば過去形だけになる作文で、あえて現在形・未来形・進行形を使えないか、さらには命令文・疑問文・感嘆文を使えないか考えてみます。そのように、みずからに制約を課し、表現を工夫せざるをえない状況を作るのです。私は大学入試の自由英作文でこれに近い方法を生徒さんにすすめています。

 その場合の制約はつぎの通りです。

  ・ 5文型のすべてを一度は使う
  ・ 単文・重文・複文をそれぞれ一度は使う
  ・ 仮定法を一度は使う
  ・ 比較級・最上級を一度は使う
  ・ 不定詞・動名詞をいくつか使う

すべて実現しなくても、やるだけやってみると、いい思いつきを呼び込むことがあります。大学入試やそれに至るまでのレベルの英作文ではたいていの人が同じような構文を単調に並べてしまいます。だから、難しい単語を使わなくても、内容が平凡でも、多彩な構文を心がけるだけで、ほかの解答からひき立って見えるはずです。つぎに英作文を書くときの一助にしてください。


参考文献

Leggett, Anthony J. (1966) Notes on the writing of scientific English for Japanese physicists 日本物理学会誌、第21巻
アリストテレス(1971)『ニコマコス倫理学(上)』(高田三郎訳)岩波文庫
イェスペルセン(2006)『文法の原理(下)』(安藤貞夫訳)岩波文庫
清水由美(2009)『辞書のすきま、すきまの言葉』(トム・ガリー監修)研究社
ジェニー・トマス(1998)『語用論入門』(浅羽亮一監修)研究社
西光義弘編(1999)『日英対照による英語学概論(増補版)』くろしお出版
マーク・ピーターセン(2014)『日本人の英語はなぜ間違うか』集英社インターナショナル
ロン・クラーク(2004)『あたりまえだけど、とても大切なこと』(亀井よし子訳)草思社


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夏休み英作文について(7) [自由英作文]

入試などの英作文

 入試などの英作文について私が知る事例をいくつか挙げます。

 ある大学では毎年とても難しい題目でかなりの分量を書かせる自由英作文が出題されていました。私はそれを見て、自分には日本語ですら書けそうにないと感じたので、受験生はどうしてるのだろうと気になっていました。ある年、変化が現れました。「○○行以上書くこと」という注意書きがついたのです。私はそれを見て、期待されるレベルの答案はごくわずかで、合格者の中にもほんの数行しか書けない人がそれまで大勢いたにちがいないと考えました。そして、そういう作文を採点し、部分点を与え、合否に関係させるのは不適切と判断されたのだろうと想像しました。数年後、また変化が現れました。「出題に無関係なことを書いても採点しない」という注意書きがついたのです。私はそれを見て、どうしても規定の分量を書きたい受験生が無理やり話題を変え、暗記してきた英作文で答案用紙を埋めている様子を想像しました。さらに数年後、最後の大きな変化が現れました。題目は一転して日常のありふれた話題になっていたのです。

[中略]

 こうして書かれている英作文の平均的レベルはこの数十年進歩していないと関係者の多くが感じているはずです。低下していると言う人さえいます。問題作成者は高度な作文を書かせたいと望みますが、試験そのものに受験者のレベルを引き上げる力はありません。受験者の中には英作文がうまくなりたいと意欲をもつ人もいるはずですが、それ以前にまずは一定の点数を確保したいと考えます。採点者は答案に満足していないかもしれませんが、なるべく時間と労力をかけずに採点し、序列を決めたいと考えます。このようなサイクルの中で、何が通じやすく、何が通じにくいか教えること、それを自分なりに工夫して身につけること、書かれた作文が実際に通じうるかどうか判定することが、どう位置づけられているのか私には疑問です。結局のところ「型どおりに書きさえすれば通じるはずであり、それ以上工夫する必要はない」という間違ったメッセージを学習者に伝えているように見えます。

 しかし、それで間に合うのはビジネスや社交の手紙の一部です。そのような作文も実用的には大事ですが、大学生になる人にとって本当に実用的な勉強は、大学レベルの論文・レポートを書きうる英語力をつけることと私は思います。そのためには、分野ごとの習慣や約束事を知るだけでなく、事実を知らない人に事実を正確に伝えること、同じ意見をもたない人に受け入れられやすい形で自分の意見を述べることができなければなりません。この根幹部分を学習するとき、文章は誤解されることもあり、外国語で書く場合にはとくに注意が必要であるという意識なしですませるのは、ほとんど不可能に近いのではないかと思います。私としては、少なくとも優秀な生徒さんには、現在の試験事情に左右されずに、本来必要な英作文の力をつけてもらいたいと願っています。

つづく

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夏休み英作文について(6) [自由英作文]

間接的な表現と言外の意味

 つぎは間接的な表現と言外の意味について考えます。以下の推薦状の例は英語の間接的な表現の働き方のわかりやすい例です。

《教員採用候補者のためにその指導教官が書いた推薦状》 Dir Sir, Mr. X’s command of English is excellent, and his attendance at tutorials has been regular. Yours, etc.(西光, 1999, p. 254)[X氏の英語力はすばらしく、個別指導にも休まず出席しました]

これを受け取った人は、まず、あまりにも短いこと、教員を推薦する文章なのに授業を担当する能力に触れられていないことにいぶかります。そして、その理由を推理する過程で「この人物は積極的には推薦できない」という言外のメッセージを受け取るのです。さらには「私は採用せよとも採用するなとも言っていない」とあとで主張する余地を残したいという指導教官の動機も感じとるかもしれません。ただし、手紙を受け取る人の性格やその人の属する文化によっては、言外の意味が通じなかったり、間違って伝わったりすることがありえます。

 言外の意味はかならずしも固定的なものではなく、流動的に変化します。“How old are you?”は、場面により「馬鹿なまねはやめなさい」「自分の判断で決めたらどうですか」という意味にもなります(ジェニー・トマス, 1998, p.87)。“Do you have a pen?”は「ペンを貸して」にも「いまメモできる?」にもなります。ジョニーの母親がママ友との会話中に、Johnny’s dadと言えば、ジョニーの母親と父親とは(離婚などの理由で)現在婚姻関係にないことが含意されます(そうでなければmy husbandと言うから)。ジョニーの母親がジョニーの友達に向かってJohnny’s dadと言っても、そのような含意は生じません(清水, 2009, p. 48)。このようなとき、外国語学習者は言外のメッセージをを受け取りそこねたり、理解するのに時間がかかったりします。

 言外の意味のこうした性質から、外国語学習者が外国語で間接的な言い方を用いるにはかなり注意が必要だろうと予想できます。かつてヴィクトリア女王に向けたスピーチで、アフリカの小国の王が「私は女王陛下の毛布に住むシラミにすぎません」と述べた事例があります(ジェニー・トマス, pp. 94-95)。王様はうまい比喩表現で女王を称えたと満足したようですが、女王やその取り巻きはどう聞いたでしょうか。この例を示したイギリス人言語学者が言うように、ここには「女王陛下は偉大である」という称賛とともに「女王の毛布にはシラミがいる」という無礼な指摘の両方があるように聞こえます。おそらく、面白いことを言うと思った人もいたでしょうし、不愉快と思った人もいたでしょう。この状況でメッセージは無事に伝わったようですが、実際のところ王様は危ない橋を渡ったのです。

 論文・レポートでも間接的な言い方は無関係ではありません。レゲットの覚書にあげられた例には書き手が期待する含意と読者が受けとる含意が異なり、言外の意味の伝達にすれ違いが生じているものがあります。日本語では「……と考えられる」と書いて、それが自分の意見であると言うことができます。しかし、これを直訳して ”It is believed that ...”と書くと、「一般的に(つまり、ほかの人には)……と思われている」という意味になります(Leggett, p. 800)。読者は書き手独自の意見がべつに書かれていると予想しますが、それを見つけることができず、混乱するのです。また、日本語では「このことはさまざまな観点から考察できる」という文を「ここでは詳述しないが、もちろん考えたうえで書いている」「今後の課題として興味があると思っている」というニュアンスで使うことができますが、英語で”This may be viewed from the standpoint of various considerations.”と述べると、「これからそのさまざまな考慮すべき点について説明する」という意味に受けとられます(p. 793)。読者はやはりあるはずのものを見つけることができず、混乱するのです。

 先ほどの都会暮らしに反対する作文は、この点でも危険です。環境が大事だという前提を言外に伝えるにしては、ひとつひとつの論点について説明量が少なく、手がかりが十分ではないからです。英語学習者の作文に慣れていない読者は、かくされた前提に到達できず、よく分からないという印象をもつでしょう。そして、べつの意味──「英語力が乏しいのだろう」「答える意欲に乏しいのだろう」「普段から論理的思考能力に乏しいのだろう」──をひきだすかもしれません。悪くすると「何か隠そうとしているのではないか」「煙に巻こうとしているのではないか」と疑うかもしれません。そんな風に意地悪く受け取らなくてもいいではないかと味方してくれる人がいたとしても、その根拠は文章の内部にはないのです。

 このようなすれ違いを避けるためには、自分が書いた文が完全に文字通り受け取られるとどうなるか、自分が本当に言いたいことは何かをよく考える必要があります。先生などに見てもらうことは役に立ちますが、必ず問題を解決できる保証はありません。つぎに述べるように、現状では大部分自分自身の努力により判断力をつけていかなければなりません。

つづく

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夏休み英作文について(5) [自由英作文]

見かけの型と意識されない型

 ここまではよい作文を目指す方向で説明しました。今度は他人から指摘されなくても自分の作文の弱点を発見できる嗅覚を身につけ、悪い作文から遠ざかることを考えます。

 先に言及したレゲットは日本人の英語論文の全般的なわかりにくさの原因は次の点にあるとしています。「日本語でならば容認されるある種の思考の型は、英語では理解されないか、理解が難しい[……]さらに、日本の文化的背景ならば意味の通る言い回しは、西欧の文化的背景では意味が通らないか、間違った印象を与えることがある」(p.791)。この指摘は半世紀も前のもので、物理学者を念頭に置いたものですが、現在でも、また誰にとっても、有用なヒントです。レゲットの言う(1)ある種の思考の型と(2)言い回しは、私なりに言い換えれば(1)意識されない日本語作文の型と(2)言外に意味を伝えようとする間接的表現です。これをぞれぞれ説明していきます。

 意識されない作文の型とは、今までの読み書きで身についた習慣、直らない癖です。具体的には、「大事なことから先に書こうとしても、ついつい前置きが長くなる」とか「詳しく説明しなくても相手はわかってくれると期待してしまう」などです。これらは意識されていないだけに発見して修正することが難しいものです。これに対して、意識的な作文の型と呼べるものもあり、こちらは教えたり、学んだりすることが比較的容易です。たとえば、日本でもアメリカ・イギリスでも学校の先生は、作文が書けない子にはfive-paragraph essayやその変種のテンプレートに従うよう指導します。five-paragraph essayは主張と3つの根拠・例と結論からなる型で、話を整理し、分量を増やし、それなりの作文に仕上げるのに好都合です。しかし、問題は、意識的な型を1つ学んだからといって、それにより意識されない習慣が消えてなくなるわけではないことです。

 私が生徒さんの作文でよく見るのは、見かけは型どおりでも、内容が無防備で、実際のところ通じるかどうか心配になる作文です。これはおそらく誰でも陥る罠で、教科書にさえそのような作文が掲載されることがあります。以下はある中学2年生用教科書の文章です。中学英語教科書や大学生の英作文によくある問題点を扱った本(マーク・ピーターセン, 2014)に引用されました。five-paragraph essayの3つの論点の部分にあたります。

《A big city is a good place to live. に反対する作文》 First, there are too many shops. So we buy many things and throw them away. Second, we can eat food anywhere. So there is too much trash on the street. Last, there are too many cars. The air is not clean. 最初に、商店が多すぎるからです。だから、私たちはたくさんのものを買い、それらを捨てます。 つぎに、私たちはどこでも食事ができるからです。だから、道にはごみが多すぎます。 最後に、車が多すぎるからです。空気がきれいではありません。(p. 156)

中学生の手本になるよう、限られた表現で書かれているものの、教科書の英語ですから、立派な先生方が作成したもので、出版社のネイティヴチェックを経ているはずです。しかし、アメリカ人の著者はこう評価しました。「『商店が多すぎるから、私たちはたくさんものを買い、それらを捨てます』と『私たちはどこでも食事ができるから、道にはごみが多すぎます』という2つの“因果関係”のいずれも乱暴すぎて話になりません[……]あまりにナンセンスなので、中学生に教えるべき『正しい英語』とは言えないのです」(p. 157)。そして、第3の自動車の論点を残して、すべて削除すべきと判定しました。


 このアメリカ人添削者の評価は厳しすぎるでしょうか。そうではないことを私たち自身の目で確認してみましょう。第1と第2の論点はどうナンセンスで、第3の論点はどうナンセンスでないのか。そして、その理由は。私には原因はこの文章に残っている日本語作文の意識されない型にあるように見えます。

 問題点を浮かび上がらせるための基準として、アメリカの小学生ための手本を利用します。この作文もべつのある種の型です。

《ノースカロライナ州小学5年生統一テストのための作文例》 二人のバスケットボール選手のうち、ロイドのほうがいい選手だったと思います。 私がそう考える理由は、彼がウィニングショットをあげたからです。 この事実は、彼がプレッシャーの中でも冷静でいられたことを示しています。 (ロン・クラーク(亀井よし子訳), 2004, pp. 83-84を改変)

はじめに「ロイドのほうがいい選手だったと思う」という意見があります(これは主張と呼ばれます)。つぎに「彼が決勝点をあげたから」という事実が示されます(理由または根拠と呼ばれます)。これだけならば、読者は「なぜ決勝点をあげた選手は『優秀』なのか、むしろ『幸運』なのではないか」と疑問をもつかもしれません。そこで、さらに「決勝点を決めたことは冷静さを示している」というつながりが示されます(前提と呼ばれます)。このような《主張》と《理由または根拠》と《前提》の組み合わせはトゥールミンモデル(Toulmin Model)と呼ばれる議論の型のエッセンスです。

 トゥールミンモデルは水も漏らさぬ完全な論理ではありません。そのかわり、実践的で、説得力のある議論を目指して、柔軟に形を変えることができます。たとえば、疑い深い読者は「ロイドが決勝点を決められたのは本当に冷静だったからなのか」また「優秀な選手には冷静さ以外にもっと重要な特質があるのではないか」と問うことができます。もし書き手がそのような読者を意識したら、ロイドのウィニングショットの様子を詳しく描写したり、冷静さとそれ以外の特質を比較したりして、議論を補強するでしょう。また反対に、根拠となる事実がたとえば「ロイドが最多得点した」だとしたら、たいていの読者にとって、そのままでも主張とのつながりは明白です。そのときは前提は省略され、省略三段論法(enthymeme)と呼ばれる型になるでしょう。そこからさらに議論を補強するなら、べつの根拠をつぎつぎと挙げていくことができます(「運動量も多かった」「頻繁にチームメイトに声をかけた」など)。

 さて、教科書の作文で生き残った第3の論点をこの型にしたがって読むと、すんなり通じることがわかります。主張は「都会に住みたくない」で、理由は「自動車が多すぎる」という事実です。この段階では、つぎに「自動車が多いと交通が渋滞する」「歩行者やサイクリストにとって危険」というかたちで議論がつながれることも考えられます。ここでは「自動車が多いと空気が汚れる」という前提が示され、議論が完成しました。読者はさらに「なぜ自動車が多いと空気が汚れるのか」「なぜ空気が汚いと住みたくないのか」と問うこともできます。それに対しては「ガソリン車は排気ガスを出す」「空気が汚いと健康によくない」という応答ができるでしょう。しかし、これらはかなり自明な事実なので、書かれていなくても理解できるのです。

 第1、第2の論点は同じようにはいきません。第1の論点の主張と理由は「都会に住みたくない」と「店が多すぎる」です。店が多いのは便利ともいえるので、読者は「なぜ店が多いところに住みたくないのか」と疑問をもちます。ここで、「私は大勢の人が集まるにぎやかな場所が苦手なのです」という答が返ってくるなら、議論は十分明らかです。しかし、作文の答は「ものを買いすぎて、捨てる」でした。アメリカ人の添削者は、このつながりは平均的な英語話者には想像もつかないと判断したのです。これが議論をつなぐ前提として有効であるためには、「なぜ店が多いとものを買いすぎるのか(買いすぎの真の理由は店の多さなのか)」「なぜ買いすぎたものを捨てねばならないのか(保管できないのか)」「なぜ物を捨てると都会に住みたくないのか(何がいけないのか)」という疑問にいちいち丁寧に答える必要があります。

 第2の論点の主張と理由は「都会には住みたくない」と「どこでも食事できる」です。こうして並べると、これは日本語の文章としてもきわめて飛躍した論理です。そのつながりの説明を期待すると、つぎに来るのは「路上にごみが多い」という文です。アメリカ人の添削者は、やはり平均的な英語話者には理解できないと判断しました。日本人読者としては、コンビニエンスストアやファーストフードレストランで買ったものをその場で食べ、包装を路上に捨てるマナーの悪い人の姿が脳裏に浮かぶような気がします。しかし、論理的な文章とは言えないこと、コンビニエンスストアやファーストフードレストランという単語がないと通じる可能性は低そうだということもわかるはずです。

 修正するにはどうしたらいいでしょうか。どちらも理由の段階でおかしくなりはじめていることから考えると、理由が示されるタイミングが遅れているのが原因です。First, Second, の直後にあるのは理由というより、ついつい長くなった前置きであり、本当の理由は前提として扱おうとした部分にあると考えたほうが話が通じます。つまり、「ものを捨てるから(理由)」「ごみが多いから(理由)」「都会に住みたくない(主張)」のです。そして、「環境が大事(前提)」なことは言わなくてもわかってもらえると期待され、述べられていないのです。

 そこで、順序を変え、前提を明示し、情報を補うと、第1の論点はつぎのようになります。

私は都市は住むのによい場所ではないと思うようになりました(主張)。 ものを買っては捨てる都市の日常に罪悪感をもちはじめたからです(理由)。 そのような生活は地球環境によくありません(前提)。 けれども、都市には店が多くて、誘惑に勝てません。

このあとつづけて適切な具体例や体験を挙げていけば、共感を呼ぶパーソナルエッセイが書けるかもしれません。また、まじめなトーンにして、消費社会の負の側面に警鐘を鳴らすレポートが書けるかもしれません。都会暮らしか田舎暮らしかの作文としては中心から外れるので、よい評価が得られない可能性はあります。しかし、削除されるよりずっとよいと言えます。

 第3の論点はこうなります。

私は都会は住むのによい場所ではないと思います(主張)。 路上にごみが多いからです(根拠)。 これは住人や頻繁な訪問者の環境意識が低い証拠です(前提)。 コンビニなどがあちこちにあり、買い食いできるからしかたないとも思いますが。

これに対しては、人口比でごみの量が多いと言えるのかという反論がすぐさま予想できます。しかし、「どこそこはごみがとても少ない町だ。あんなところに住みたい」という反例を1つ用意しておけば再反論できます。それで反論してきた相手が納得しなくても、大勢の人にナンセンスな議論と思われるよりはずっとよいのです。

つづく

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夏休み英作文について(4) [自由英作文]

パラレリズムとユニティー

 もう少し具体的にどんな書き方をすればいいのかを、2つ以上のことを書く場合と、1つのことを書く場合とに分けて説明します。2つ以上のことを書き、最終的に1つに統合するのにくらべて、はじめからただ1つのことを書くというのは案外わかりにくいと思うからです。

 2つのことを書くにはパラレリズム(並立構造)で整えるというはっきりした理想があります。パラレリズムとは基本的には文単位のルールで、等位接続詞の前後の要素は形をそろえなければならないというものです。たとえば、つぎように不定詞と動名詞を混在させることはできません。

   *She likes to ski and skating.

不定詞と不定詞、または動名詞と動名詞でそろえなければなりません。

   She likes to ski and (to) skate.
   She likes skiing and skating.

パラレリズムは、それだけでなく、パラグラフ(段落)や文章全体の構成原理にもなります。大学入試レベルの文章を読むようになると、この原理が部分的または全体的に活かされていることが多いのに気づくでしょう。

 例として、糖尿病について説明する文章を考えます。糖尿病には若年で発症する1型と中年以降に発症する2型があります。そのうち、まず1型糖尿病について、患者の割合、発症する年齢、症状、原因やメカニズム、療法や対策の順で述べるとします。そうしたら、つぎに2型糖尿病についても、同じ順序で、同じ程度の分量を書きます。すると、文章を読み進めるにつれて、読者の頭の中には2列の表(次ページ[省略])が自然に出来上がります。このようにして、2つの事柄はパラレリズムを用いることで統一するのが理想です。

 このとき注意したいことがあります。1型糖尿病の患者の割合が約10%と先に書いたならば、2型の患者の割合が約90%であることはほぼ自明だから省略するという書き方は考えられます。しかし、もし具体的に示すことができる種類の数字ならば、それぞれ明示するほうがよいのです。同じ順序で述べると単調な印象だからという理由で、順番に変化をつけるのはよくありません。特別な理由がなければ同じ順序でよいのです。2型のほうが患者数が多いから、その対策をくわしく書けば親切だろうと考えて、その部分だけ分量を増やすのもよくありません。そうしたいのなら、理由を述べて、べつのパラグラフをつくるとよいのです。また、糖尿病とインフルエンザのように本質的にべつべつな2つの事柄をパラレリズムにまとめるのは不自然です。

 3つのことを書くときも同じようにします。じつは糖尿病はほかにも、妊娠により症状があらわれる妊娠糖尿病(など)があります。これらも含めて説明するなら、今度は3列の表ができるように書けば理想的なパラレリズムです。もっとも実際の糖尿病の解説文では第3以下の型についてはつけ加え程度に触れられているにすぎない場合がありますが、それはこれらの型がまれなため、その現実に合わせた書き方が採られたからです。3つのことを書くには順序を工夫する必要も生じます。普通に配列するなら、旧情報から新情報への流れにしたがい、受け容れやすいもの・明白なものをはじめに配置し、受け容れにくいもの・強調したいものを最後に配置します。こうして徐々に読者を自分の考えや主張の中に引き入れます。しかし、まったく逆の順序で配置することもできます。この場合、まず読者にインパクトを与えて関心をひきつけ、最後に駄目を押すのです。

 書くことが4つにふえたときは、2対2にグループ化する余地ができます。つまり、文レベルで示すと、A, B, C and Dと単純に並べるかわりに、A and B as well as C and Dのように2つずつまとめることができます。文章レベルでも、論点を1から4まで羅列するより、何らかの基準をとって2対2にグループ化するほうがより考え抜かれた印象を与えます。ほかにランク付けして上からまたは下から順に述べていく方法も考えられます。どれを選ぶかは議論の方向や現実のありようを考えて決めます。5つ以上のことを書く場合も同様です。

 残るは1つの話題の扱い方です。私が昔読んだ英語の論文・レポートの手引書には、「1つのセンテンスには1つのアイディアだけを書く」「1つのパラグラフでは1つのトピック(話題)についてだけ書く」というアドバイスがよくありました。同じように、よい文章またはパラグラフにはユニティー(統一性)が必要であるという言い方もありました。ところが、よく見るわりには詳しい説明に出会わなかったため、大学生の私にはこれが本当のところ何を意味するのかわかりませんでした。

 たとえば、もしこのアドバイスに忠実にしたがえば、短い文の羅列になるのではないかと思いました。しかし、論文で短い文を羅列するのは下手な文章とされます。とくに少し前の世代の学者は何行もつづく息の長い文を書くのが習慣で、それが論文にふさわしいとされていました。パラグラフにしても、著者や分野により1ページを超える長大なものを見かけました。その長い長い文やパラグラフの中に考えや話題が1つしかないとはどういうことか不思議でした。同じことを言い方を変えて何度も繰り返したパラグラフは、たしかに1つのトピックしか含まないけれども、はたして優れているだろうかと思いました。そうではなく、内容は徐々に推移していかなければならないとしたら、どこからどこまでが1つの考えやトピックなのかと思いました。その後もこれらの点に明快な説明がある手引書に出会った記憶はないのですが、いまでは私にもこのアドバイスの意味が理解できるようになりました。

 次ページのヒエラルキー図(またはピラミッド図)[省略]がそのヒントです。hierarchyは狭くは高位聖職者(の序列)を指し、広くは階層的支配構造一般を意味します。日常では学校や会社の組織図で目にします。外見はちがうものの、教科書や参考書の目次もヒエラルキーをなしています。図書館や大型書店の書架もそうです。パソコンの階層型ファイルシステム(入れ子状のフォルダによるファイル管理)も基本的にはそうです。大まかな話ですが、私の印象では、この階層的支配構造はヨーロッパの人々の思考の広範囲に浸透しています。ヨーロッパの諸言語にはみな比較級があり、たいていは最上級もあることが関係するかもしれません。それに対して日本の受験生はみな比較構文が好きではないので、読み書きにおいてあまり強く意識していない可能性があります。しかし、ユニティーの理解にはこの考えが重要です。

 例として、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』を見ましょう。アリストテレスは幅広い分野でヨーロッパの学問の基礎を築いたことで万学の祖と呼ばれ、現代でも分野によっては大きな存在感をもっています。『ニコマコス倫理学』冒頭には、あらゆる人間活動には1つの究極的目的があるという興味深い考えが示されています。つぎの一節をたどっていくと、アリストテレスがヒエラルキー構造にしたがって思考している様子がわかるでしょう。

いかなる技術、いかなる研究も、同じくまた、いかなる実践や選択も、ことごとく何らかの善を希求していると考えられる。[……]だが、実践とか技術とか学問とかにもいろいろ数多いものがあって、そのそれぞれの目的とするところもまた、たとえば医療は健康を、造船は船を、統帥は勝利を、家政は富を、というふうにいろいろなものとなってくる。いまもし、こうした営みの幾つかが或る一つの能力の下に従属するとすれば、──たとえば馬ろく製作とかその他すべての馬具の製作は騎馬に、そうしてこの騎馬やその他すべての軍事はさらに統帥に従属しているし、その他の場合にあっても同じような従属関係が見られる──、そこではおよそ、棟梁的なもろもろの営みの目的のほうが、これに従属する営みの目的よりも、より多く望ましいものなのである。なぜなら前者のゆえに後者は追求されるのであるから。[……]かくしていま、およそわれわれの行うところのすべてを蔽うごとき目的──われわれはこれをそれ自身のゆえに願望し、その他のものを願望するのもこのもののゆえであり、したがってわれわれがいかなるものを選ぶのも結局はこれ以外のものを目的とするのではない、といったような──が存在するならば、[……]明らかにこのものが「善」(タガトン)であり「最高善」(ト・アリストン)でなくてはならない。(高田三郎訳, pp. 15-16)


 ヒエラルキーの観点から考えると、先ほどの疑問を解決できます。ヒエラルキー構造は大きくても小さくても本質的には変化しません。同じように、文やパラグラフは長くても短くても、ユニティーをもつことができます。また、一見雑多な要素の集合でも、重要な共通点があれば、それを頂点としてヒエラルキーを作ることができます。同じように、さまざまな話題について書いても、つながりと一番大事なポイントがわかるように書けば、ユニティーをもつことができます。ヒエラルキーはまた、全体と部分がおおよそ相似な図形です。大きなヒエラルキーの中の小さなヒエラルキーを取り出し、順序よく述べていくならば、話題がスムーズに推移することになります。同じ内容の繰り返しは、階層構造をもたないため、許されないとわかります。

 よい文章やパラグラフがもつそのほかの性質として、cohesive(結合性がある)、consistent(一貫性がある)、comprehensiveまたはwell developed(包括的または十分詳しい)がよく挙げられます。ヒエラルキーの序列をたどって、目立った切れ目が感じられないとき、その文章には結合性があるのです。また、そのようなつながりが順序よく述べられていて、整然としているとき、その文章には一貫性があるのです。そして、関係するすべての要素が漏れなく含まれているとき、または十分な量の要素が含まれているとき、その文章は包括的または十分詳しいのです。文章の構想段階で階層構造が整っていると、これらの性質も実現しやすいでしょう。

 文章が書きにくいと感じたときは、頭の中の階層構造を吟味すると解決につながることがあります。横軸の中で同列を占めるはずの要素で忘れているものはないだろうか──縦軸の中で要素が抜け落ち、階層が飛んでいるところはないだろうか──べつの要素を頂点として(つまり、べつの観点から)整理しなおすことはできないだろうか──をあらためて考えてみます。構造がしっかりしていれば、叙述の順序や方法にいくらか欠陥があっても、全体的には理解される可能性が高まります。あとで機会があれば補足、訂正できます。

 これが唯一の正しい書き方であると主張したいわけではありません。けれども、これを手がかりにして、よいお手本を探してほしいと思います。上手な構成でわかりやすく書かれていると思う文章に出会ったら、ヒエラルキー構造やパラレリズムの観点から読み返してみてください。これらの構造がまさに当てはまるかもしれません。当てはまらないときでも、その文章にどんな工夫がなされているか探せば、新しいテクニックを学べるのです。

つづく

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夏休み英作文について(3) [自由英作文]

理想の英作文のイメージ

 大学生のころ私は論文・レポートの書き方の本をあれこれ読みましたが、結局どういう文章を目指すべきなのかわからず困りました。著者や分野により少しずつ異なるものの、こうした手引書には、やるべきこと(注のつけ方、参考文献の示し方、序論・本論・結論のような全体の構成の目安)、やってはいけないこと(剽窃は犯罪である、孫引きは危険である、陥りがちな論理的誤謬がある)が書いてありました。しかし、これらはでき上がった文章を点検するチェック項目としては役立っても、新しく文章を作り出す指針にはならないように思えました。親切な手引書には、作文のステップ(調査、構想、草稿、最終稿など)ごとに進め方が説明されていました。しかし、私の作文は説明通りには進みませんでした。

 英語の作文ではさらに困りました。昔から経験的に知られていることですが、日本語で申し分のない文章でも、英語に翻訳するとよい文章にはまずなりません。たとえば、Anthony J. Leggettの有名な「日本の物理学者のための科学英語についての覚書」(1966)には「優れた翻訳で読んでも日本人の英語科学論文はどこかわかりにくい」(p. 790)「頭を使って空隙を埋めなければならないところは、さながら水墨画のようだと感じる読者もいる」(p. 792)と述べられています。だから、その対策として、はじめから英語で書き、日本語の発想が入らないようにするべきだと昔からよく言われていて、今でも言われます。けれども、個々の文の主語の選択や動詞の語法についての問題がそれで解決するとしても、文章構成についてどんな効果があるのか私には疑問でした。このことをずっと考えていて、あるとき、どんな話題でも裁判をイメージすればよいのではないかと思いつきました(きっかけはアリストテレス『弁論術』にある法廷弁論・演説的弁論・議会弁論という用語を知ったことだったように思います)。その後、私には英語レポートを書く機会がないので、残念ながらうまく行くことが実証済みとはいきませんが、もっと早く思いつけば私の論文・レポートにも役立ったはずと確信していますので、ここで紹介します。

 イメージするのは現実の裁判ではなく、テレビドラマの中の裁判や裁判ごっこでかまいません。丁々発止の議論を戦わせる場面ではなく、むしろ平凡な場面が適しています。自分が証人・被告(人)・原告として法廷に立っていると想像して、書くつもりの内容をできるだけわかりやすく話してみてください。ありそうな質問を予想し、それに答えてみてください。こうすることで話の内容を整理することができ、結果として、意識しなくてもチェック項目の多くをクリアーできます。短い作文ならそのまま文章になります。長い作文でも、はじめに全体の構成についてこの作業をすれば、大事なポイントや注意すべきポイントを明確に意識できます。その後、各部分で同じ作業を繰り返します。

 説明する文章なら証人のイメージが役立ちます。もしドラマの中でこんな証人が出てきたらどうでしょうか──話があちこち飛んで、ついていくのがたいへん──延々と話しつづけるのを聞いても、知りたいことや肝心なことがわからない──何か知っているとほのめかすが、なかなか話さない──事実と意見の区別があいまいで、本当かどうか問いただすと「ただそう思っただけ」と言ったりする──質問されても直接答えず、持論を開陳しはじめる。ひょっとしたら面白いかもしれませんが、誰も自分の文章がこんな印象を与えるのを望まないでしょう。反対に、よい証人は話の順序が整っていて、詳しく目に浮かぶように話すので、状況が手にとるように理解できます。事実と意見が区別されていて、安心して聞けます。質問されれば、知っていることは素直に話し、知らないことは正直にわからないと言います。このような人物を演じるとよいのです。

 主張する文章なら被告(人)や原告がよいモデルになります。悪い被告(人)・原告は、矛盾することを主張して自分では気づいていないことがあります。根拠が薄弱だったり、主張をころころ変えたりします。都合の悪い質問をされるのを嫌います。開き直ったり、まじめに話さなかったりします。自分の話がこんなふうに聞こえるかもしれないと心配なら、修正する必要があります。よい被告(人)・原告は、主張したいことが明確で、根拠がしっかりしていて、理屈が通っています。聞く人の疑念にすすんで答えます。内容に自信があるので、はったりを効かせたり、虚勢を張る必要がなく、まじめに話します。

 ほかの人物も役に立ちます。裁判官や傍聴人は読者とみなすことができます。裁判官は判決を下すので、先生や採点者のようなタイプの読者です。傍聴人は熱心に聴いたり、よく聴かなかったり、ときどきどよめいたりするかもしれませんが、通常発言はしないので一般読者に似ています。できればどちらにもアピールするように構想を立てます。検事や弁護人は読者の代表として疑問点を質し、作文の流れを導きます。するどい検事の質問により、作文は詳細になり、脈絡が整い、わかりやすくなるでしょう。都合のよい質問しかしない弁護人の誘導にしたがっていると、独善的で、読者には理解しにくい作文になる恐れがあります。

 裁判と英作文の取り合わせは、間にスピーチを置いて考えるなら、それほど突飛ではありません。アメリカ・イギリスには幼稚園から小学校低学年にかけてショーアンドテル(show and tell)という言語教育があります。YouTubeなどの映像を見ると、子供たちが好きなおもちゃなどをもってきて、みんなの前で説明し、質問に答えています。まるで将来裁判でよい証言ができる証人を教育しているかのようです。さらに上の学年のパブリックスピーキングやディベートはもっと裁判に似ています。大学で博士号を得るには博士論文を提出後、口頭試問を受ける習慣があり、その口頭試問はdefense(弁護)、結果の発表はverdict(評決)と呼ばれます。現在の試験の実態はさまざまですが、元来は学位請求者が学位にふさわしいかどうかを争う裁判のようなものだったと言えます。

つづく

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夏休み英作文について(2) [自由英作文]

何がよくなかったのか

[中略]

 地名の説明がないことや話題が2つに分かれていることがそんなに悪いだろうかと疑問に思うかもしれません。また、学校の先生はこれらを問題としなかったかもしれません。以下、私が考える良い作文と悪い作文について説明します。人により好みもあるので、同意してもらえるかどうかはわかりませんが、それが伝われば、私がこの2点を修正するほうがよいと考えた理由は納得してもらえるでしょう。

つづく

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夏休み英作文について(1) [自由英作文]

自由英作文、難しいですね。
昨年生徒さんの夏休みの宿題の英作文を見せてもらったことから、自由英作文について説明するレポートを書くことにしました。
そうしたら自分自身の作文能力の問題でとんでもなく時間がかかってしまいました。
せっかくなのでここに分載します。

タイトル:
夏休み英作文について

概要:
かしこい中学生にどんな夏休みの英作文がよいか説明される。裁判ごっこ、パラレリズムとユニティーの意識がよい作文に、日本語作文習慣の残存や不用意な間接的表現が悪い作文につながると論じられる。個人の作文にかかわる部分は省略されている。

目次:
何がよくなかったのか
理想の英作文のイメージ
パラレリズムとユニティー
どんな書き方があったのか[省略]
見かけの型と意識されない型
間接的な表現と言外の意味
入試などの英作文
その他のヒント

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