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夏休み英作文について(5) [自由英作文]

見かけの型と意識されない型

 ここまではよい作文を目指す方向で説明しました。今度は他人から指摘されなくても自分の作文の弱点を発見できる嗅覚を身につけ、悪い作文から遠ざかることを考えます。

 先に言及したレゲットは日本人の英語論文の全般的なわかりにくさの原因は次の点にあるとしています。「日本語でならば容認されるある種の思考の型は、英語では理解されないか、理解が難しい[……]さらに、日本の文化的背景ならば意味の通る言い回しは、西欧の文化的背景では意味が通らないか、間違った印象を与えることがある」(p.791)。この指摘は半世紀も前のもので、物理学者を念頭に置いたものですが、現在でも、また誰にとっても、有用なヒントです。レゲットの言う(1)ある種の思考の型と(2)言い回しは、私なりに言い換えれば(1)意識されない日本語作文の型と(2)言外に意味を伝えようとする間接的表現です。これをぞれぞれ説明していきます。

 意識されない作文の型とは、今までの読み書きで身についた習慣、直らない癖です。具体的には、「大事なことから先に書こうとしても、ついつい前置きが長くなる」とか「詳しく説明しなくても相手はわかってくれると期待してしまう」などです。これらは意識されていないだけに発見して修正することが難しいものです。これに対して、意識的な作文の型と呼べるものもあり、こちらは教えたり、学んだりすることが比較的容易です。たとえば、日本でもアメリカ・イギリスでも学校の先生は、作文が書けない子にはfive-paragraph essayやその変種のテンプレートに従うよう指導します。five-paragraph essayは主張と3つの根拠・例と結論からなる型で、話を整理し、分量を増やし、それなりの作文に仕上げるのに好都合です。しかし、問題は、意識的な型を1つ学んだからといって、それにより意識されない習慣が消えてなくなるわけではないことです。

 私が生徒さんの作文でよく見るのは、見かけは型どおりでも、内容が無防備で、実際のところ通じるかどうか心配になる作文です。これはおそらく誰でも陥る罠で、教科書にさえそのような作文が掲載されることがあります。以下はある中学2年生用教科書の文章です。中学英語教科書や大学生の英作文によくある問題点を扱った本(マーク・ピーターセン, 2014)に引用されました。five-paragraph essayの3つの論点の部分にあたります。

《A big city is a good place to live. に反対する作文》 First, there are too many shops. So we buy many things and throw them away. Second, we can eat food anywhere. So there is too much trash on the street. Last, there are too many cars. The air is not clean. 最初に、商店が多すぎるからです。だから、私たちはたくさんのものを買い、それらを捨てます。 つぎに、私たちはどこでも食事ができるからです。だから、道にはごみが多すぎます。 最後に、車が多すぎるからです。空気がきれいではありません。(p. 156)

中学生の手本になるよう、限られた表現で書かれているものの、教科書の英語ですから、立派な先生方が作成したもので、出版社のネイティヴチェックを経ているはずです。しかし、アメリカ人の著者はこう評価しました。「『商店が多すぎるから、私たちはたくさんものを買い、それらを捨てます』と『私たちはどこでも食事ができるから、道にはごみが多すぎます』という2つの“因果関係”のいずれも乱暴すぎて話になりません[……]あまりにナンセンスなので、中学生に教えるべき『正しい英語』とは言えないのです」(p. 157)。そして、第3の自動車の論点を残して、すべて削除すべきと判定しました。


 このアメリカ人添削者の評価は厳しすぎるでしょうか。そうではないことを私たち自身の目で確認してみましょう。第1と第2の論点はどうナンセンスで、第3の論点はどうナンセンスでないのか。そして、その理由は。私には原因はこの文章に残っている日本語作文の意識されない型にあるように見えます。

 問題点を浮かび上がらせるための基準として、アメリカの小学生ための手本を利用します。この作文もべつのある種の型です。

《ノースカロライナ州小学5年生統一テストのための作文例》 二人のバスケットボール選手のうち、ロイドのほうがいい選手だったと思います。 私がそう考える理由は、彼がウィニングショットをあげたからです。 この事実は、彼がプレッシャーの中でも冷静でいられたことを示しています。 (ロン・クラーク(亀井よし子訳), 2004, pp. 83-84を改変)

はじめに「ロイドのほうがいい選手だったと思う」という意見があります(これは主張と呼ばれます)。つぎに「彼が決勝点をあげたから」という事実が示されます(理由または根拠と呼ばれます)。これだけならば、読者は「なぜ決勝点をあげた選手は『優秀』なのか、むしろ『幸運』なのではないか」と疑問をもつかもしれません。そこで、さらに「決勝点を決めたことは冷静さを示している」というつながりが示されます(前提と呼ばれます)。このような《主張》と《理由または根拠》と《前提》の組み合わせはトゥールミンモデル(Toulmin Model)と呼ばれる議論の型のエッセンスです。

 トゥールミンモデルは水も漏らさぬ完全な論理ではありません。そのかわり、実践的で、説得力のある議論を目指して、柔軟に形を変えることができます。たとえば、疑い深い読者は「ロイドが決勝点を決められたのは本当に冷静だったからなのか」また「優秀な選手には冷静さ以外にもっと重要な特質があるのではないか」と問うことができます。もし書き手がそのような読者を意識したら、ロイドのウィニングショットの様子を詳しく描写したり、冷静さとそれ以外の特質を比較したりして、議論を補強するでしょう。また反対に、根拠となる事実がたとえば「ロイドが最多得点した」だとしたら、たいていの読者にとって、そのままでも主張とのつながりは明白です。そのときは前提は省略され、省略三段論法(enthymeme)と呼ばれる型になるでしょう。そこからさらに議論を補強するなら、べつの根拠をつぎつぎと挙げていくことができます(「運動量も多かった」「頻繁にチームメイトに声をかけた」など)。

 さて、教科書の作文で生き残った第3の論点をこの型にしたがって読むと、すんなり通じることがわかります。主張は「都会に住みたくない」で、理由は「自動車が多すぎる」という事実です。この段階では、つぎに「自動車が多いと交通が渋滞する」「歩行者やサイクリストにとって危険」というかたちで議論がつながれることも考えられます。ここでは「自動車が多いと空気が汚れる」という前提が示され、議論が完成しました。読者はさらに「なぜ自動車が多いと空気が汚れるのか」「なぜ空気が汚いと住みたくないのか」と問うこともできます。それに対しては「ガソリン車は排気ガスを出す」「空気が汚いと健康によくない」という応答ができるでしょう。しかし、これらはかなり自明な事実なので、書かれていなくても理解できるのです。

 第1、第2の論点は同じようにはいきません。第1の論点の主張と理由は「都会に住みたくない」と「店が多すぎる」です。店が多いのは便利ともいえるので、読者は「なぜ店が多いところに住みたくないのか」と疑問をもちます。ここで、「私は大勢の人が集まるにぎやかな場所が苦手なのです」という答が返ってくるなら、議論は十分明らかです。しかし、作文の答は「ものを買いすぎて、捨てる」でした。アメリカ人の添削者は、このつながりは平均的な英語話者には想像もつかないと判断したのです。これが議論をつなぐ前提として有効であるためには、「なぜ店が多いとものを買いすぎるのか(買いすぎの真の理由は店の多さなのか)」「なぜ買いすぎたものを捨てねばならないのか(保管できないのか)」「なぜ物を捨てると都会に住みたくないのか(何がいけないのか)」という疑問にいちいち丁寧に答える必要があります。

 第2の論点の主張と理由は「都会には住みたくない」と「どこでも食事できる」です。こうして並べると、これは日本語の文章としてもきわめて飛躍した論理です。そのつながりの説明を期待すると、つぎに来るのは「路上にごみが多い」という文です。アメリカ人の添削者は、やはり平均的な英語話者には理解できないと判断しました。日本人読者としては、コンビニエンスストアやファーストフードレストランで買ったものをその場で食べ、包装を路上に捨てるマナーの悪い人の姿が脳裏に浮かぶような気がします。しかし、論理的な文章とは言えないこと、コンビニエンスストアやファーストフードレストランという単語がないと通じる可能性は低そうだということもわかるはずです。

 修正するにはどうしたらいいでしょうか。どちらも理由の段階でおかしくなりはじめていることから考えると、理由が示されるタイミングが遅れているのが原因です。First, Second, の直後にあるのは理由というより、ついつい長くなった前置きであり、本当の理由は前提として扱おうとした部分にあると考えたほうが話が通じます。つまり、「ものを捨てるから(理由)」「ごみが多いから(理由)」「都会に住みたくない(主張)」のです。そして、「環境が大事(前提)」なことは言わなくてもわかってもらえると期待され、述べられていないのです。

 そこで、順序を変え、前提を明示し、情報を補うと、第1の論点はつぎのようになります。

私は都市は住むのによい場所ではないと思うようになりました(主張)。 ものを買っては捨てる都市の日常に罪悪感をもちはじめたからです(理由)。 そのような生活は地球環境によくありません(前提)。 けれども、都市には店が多くて、誘惑に勝てません。

このあとつづけて適切な具体例や体験を挙げていけば、共感を呼ぶパーソナルエッセイが書けるかもしれません。また、まじめなトーンにして、消費社会の負の側面に警鐘を鳴らすレポートが書けるかもしれません。都会暮らしか田舎暮らしかの作文としては中心から外れるので、よい評価が得られない可能性はあります。しかし、削除されるよりずっとよいと言えます。

 第3の論点はこうなります。

私は都会は住むのによい場所ではないと思います(主張)。 路上にごみが多いからです(根拠)。 これは住人や頻繁な訪問者の環境意識が低い証拠です(前提)。 コンビニなどがあちこちにあり、買い食いできるからしかたないとも思いますが。

これに対しては、人口比でごみの量が多いと言えるのかという反論がすぐさま予想できます。しかし、「どこそこはごみがとても少ない町だ。あんなところに住みたい」という反例を1つ用意しておけば再反論できます。それで反論してきた相手が納得しなくても、大勢の人にナンセンスな議論と思われるよりはずっとよいのです。

つづく

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